目からウロコ

ブログ名を変えました。(旧SMAPのいる日常)

ダイアナ妃☆没後25年

 

ダイアナ妃が亡くなったのは1997年8月31日。

不幸な事故が起きたのは、忘れもしない、パリです。

英国王室へのバッシング報道が激しくなるにつれ、ダイアナ人気は不動のものとなりました。

そして、25年目のことし2022年秋に2本の映画が公開されます。

 

実は今いろいろと勉強しているところですが、

ディアーナラテン語:Diāna)あるいはディーアーナ(Dīāna)は、ローマ神話に登場する、狩猟、貞節月の女神。ユーピテルとラートーナの娘で、アポロの妹とする説がある。新月の銀の弓を手にする処女の姿が特徴。→Wikipediaより

 

さて、ここで江戸末期にポーンと飛びます。

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嘉永5年(1852年)、ニコライ一世の命を受けたプチャーチン提督が、日本との国交交渉に臨むべく、ロシアを出発しました。幕府から交渉の場所に指定された伊豆半島南部の下田に、プチャーチン一行がディアナ号で入港したのは、嘉永7年10月(1854年12月)のことでした。幕府側の代表である川路聖謨(かわじ・としあきら)らとの交渉が、ようやく始まりました。

ところが、その直後の嘉永7年11月(1854年12月)、安政の大地震が東海地方を襲い、その津波によって、下田港に停泊中のディアナ号は船底と舵を大きく破損してしまい、乗組員にも死傷者が出ました。ただ、そうした混乱の最中にあっても、プチャーチン一行は波にさらわれた日本人数名を救助したということです。

 

日露交渉のため伊豆半島下田に入港したディアナ号が安政の大地震により大きく破損。

幕府側の代表者は川路聖謨大河ドラマ「青天を衝け」で平田満が演じていたそうですね。私は見てないけど、渋沢栄一のドラマ。あの時代の話です。

プチャーチンによるディアナ号来航と「安政の大津波」 | 下田市

その後、幕府の許可を得て、日露共同で帰国用の代船ヘッダ号を建造。その間も日露交渉は継続したと、まあ、ここまではよかったのですが、

帰国する艦船を失ったプチャーチン一行は三陣に別れて帰国しています。第一陣は安故2年(1855)2月米国の商船フート号を雇い、159人を乗船させ帰国の途につきました。
 第二陣は戸田で建造された新造船「ヘダ号」で、同年3月プチャーチン以下48名が乗船して、故国に向かって出帆します。残りの第三陣270人余は、米国船のグレタ号を傭船して同年6月戸田港を出帆しました。しかし、グレタ号はオホーツク海でイギリスの軍艦に発見され、全員捕虜として捕らえられます(クリミア戦争の最中で、ロシアとイギリスが対立していたため)。その後、香港、英国本土へ移され、ロシアに送還されたのは、クリミア戦争終結し、講和した後でした。

 

やっぱり英国とロシアは因縁の仲。

その両方に日本が絡んでいる。

明治時代、日英同盟を結び日本もロシア相手に戦争して勝つわけですが、このとき脚光を浴びたのは海軍でしたね。まあ、でも、日本が英国の完全な植民地にならなかったのは、やはり国内に対抗する勢力があったということでしょう。明治憲法のお手本はドイツだし。

そして、よりによってダイアナ妃のメモリアルイヤーにエリザベス女王が亡くなり、核のボタンを押すことも厭わないと公言する対露強硬派の女性、もう一人のエリザベスが英国の新首相に就任。

うーん、やはりWWW3の暗示でしょうかねぇ。

エゼキエル戦争かな。

 

ノートルダムラソンプシオン