目からウロコ

ブログ名を変えました。(旧SMAPのいる日常)

すべては自分のため

連休中に久しぶりに旧友と会ってランチをしました。

彼女も86歳のお母さんを抱えていて、お父さんとは心の準備ができないまま突然の別れだったという状況も私とよく似ています。

お互いに納得したのは、今、母親の世話に明け暮れているのも、父親のときのように、あれをしてやればよかった、あんなことを言わなければよかったと後悔したくないから、つまるところ自分のためにやっているんだと。親のためではないのね。だから、今のところ犠牲になっている感覚はない。

そんなこともあって、人に何かをするとき、できるだけ相手のためだとは思わないことにしています。

頼まれたことを引き受けるときは別ですが、たいていのことは自分がやりたいからやっているんだし、自分が後悔したくないからやっているわけで、そのほうがたとえ相手が私の行為を喜ぶどころか迷惑に感じたとしても、それはそれで仕方がないと思える。

道端で人が倒れているとき反射的に助けようとする行為と意識して人に何かしようとする行為は別々にとらえたほうがいいかもしれない。

私の身内がね、会社でリストラをする側になって、なんとか部下の再就職先を見つけてあげようと苦心したらしい。

で、結果、ものすごく大変な思いをした相手ほど何の音沙汰もなく、たいして何の努力もしていない相手ほど「あのときはほんとうにありがとうございました」といって感謝の意を伝えてくるんですって。不思議だなぁ〜と言ってました。

不思議でもなんでもなく、自己犠牲を払ってまで人に何かを施すと、自分では意識しているつもりはなくてもどうしても見返りを期待しちゃうんですよね。

長くボランティアをされている方ほど「自分のためにやらせてもらっている」とおっしゃるのはそういうことだと思います。

だれかのために役に立つことで生き甲斐を感じ、自分の存在価値を確かめることができる。感謝するのはこちらのほうだと、そうおっしゃる。