目からウロコ

ブログ名を変えました。(旧SMAPのいる日常)

次は何を・・・・しましょうか

闇バイトによる強盗事件&報道が沈静化の兆し。

指示役が捕まったといっても、下っ端に変わりはないし、暴力団がかかわっていたといっても、それが頂点というわけでもないだろうし、いつものように真実は霧の中。

ただ、こういうときこそ次の展開に気をつけなくては。

 

話は変わりますが、終戦間際に東海地方を襲った地震のこと、アメリカ軍が「地震の次は何をお見舞いしましょうか」と書かれたビラをまいたことをご存じない方もおられるかと思いますので、下記のサイトから引用して紹介させていただきます。

 

昭和19年(1944)12月7日の昭和東南海地震と翌20年(1945)1月の三河地震は、軍部によって報道管制が敷かれ完全に隠ぺいされた。」

 

www.risktaisaku.com

 

この地震の状況を心理戦として「ドラゴーンキャンペーン作戦」と名づけ、宣伝ビラ投下作戦をアメリカ軍が実行したとされる。B29から投下された宣伝ビラには毛筆で地震の次は何をお見舞いしましょうか」と書かれていた、という。

また、津波被害の資料となるアメリカ軍機による3日後に撮影した航空偵察写真が残されており、連合国側は状況を全て把握し、特に軍需工場などの戦略拠点の被害状況を注視した。地震から昭和東南海地震6日後の12月13日夜には、津波の被害にもさらされ惨事となっている名古屋地域の航空機工場を中心とする一帯に、アメリカ軍は大規模な空襲を行っている。

 

死者1000人以上か
昭和東南海地震による家屋の倒壊、地震直後に発生した津波により、三重県、愛知県、静岡県を中心に、推定1223人の死者・行方不明者を出したとされている。死者数は重複があり、916人とする説もある。これは、太平洋戦争中でもあり、戸籍などの謄本が津波により消失しているため現在でも正確な実数は把握できない。行政機能がまひしたため、死亡届を出さずに、現在に至っている例も散在する。

 

真珠湾攻撃が12月8日、昭和東南海地震がその3年後の12月7日。

地震の次は何をお見舞いしましょうか」ってまさか犯行声明ではありますまい。

戦争中に敵の領土で地震を仕掛けることなどできるわけがないですから、普通は。

そのあと、東京大空襲、大阪大空襲、広島、長崎の原爆と続くわけですから、犯行予告みたいなものかしら。

だって、日本はアメリカと真剣に戦っていたのでしょう?

内部に協力者がいたなんてめっそうもない。

だれですか、そんなデマを流しているのは。

月にかわってお仕置きよ。